2011年7月の御題について

「榛原<はりはら>」の御題は万葉集280 (巻三)高市連黒人
「いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ」

口語訳すれば「さあ一同の皆よ、大和へ急ごう。真野の榛の枝を手折りながら行こう」といった所でしょうか。真野は今の神戸市長田区真野町のあたり、白菅はこの地の特産だったらしく、「白菅の」は「真野」の枕言葉だそうです。「榛(はり)」はハンノキで、古くから樹皮や実を用いた染色(榛摺り)が行なわれていました。

万葉歌にこの木が詠まれる時、多くの歌でこの染料としての一面が詠われ、また幾つかの歌には、「榛原」の形で登場します。

実は私にはこれがずっと不思議でした。なぜ、「榛林」でなく「榛原」なのか。「原」に古く「林」の意味があったとする説も読んだのですが、例えば(巻一)の井戸王の歌「綜麻形の林のさきのさ野榛の……」などは、それだけでは説明できない気がしたのです。ハンノキは「林の先の野原」に生える……?

この疑問は、以前森林保護活動に参加してとある植林地へ行った時に解けた気がしました。
数年前の嵐で一面倒木の被害にあった荒れ地に、沢山のケヤマハンノキが自然萌芽しているのに出会ったのです。

明るい場所を好み、根粒菌の力を借りて土を肥しながら素早く成長するパイオニアプラント。ハンノキには「林」や「森」よりも「原」が良く似合っているようでした。

その速い成長と痩せた土地を肥す力は古の人々に生命力を感じさせたことでしょう。旅の途中で枝を手折って、魂振りのために挿頭(かざ)したり 道標にしたりするのに、お誂えの木だったのではないでしょうか。

鷹取山の南東の真野は、後年、平清盛により福原京が築かれ、幻の内に亡びた地域に含まれます。「落ちのびる平家の武者や木曽義仲によって火を放たれた跡の焼け野に、初めに芽吹いた樹木も榛だったかも知れない」などという空想も湧いてきます。

ただ、ハンノキの気持ちになってそんな物語に耳を傾けようとしても、彼らは何も語ってはくれません。「私たちはただ、『伸び行かん、伸び行かん』として生きていただけだ」とでもいうように……。

「不如帰」は三夏の季語です。以前、知人たちと郊外の温泉に行った時、初めてこの鳥の声を聞きました。雨の中で、ひたすら鳴き続けていたのが印象的でした。