今月の御題について

「葦鶴<あしたづ>」の御題は万葉集919(巻六)山部赤人
「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」

口語約すると「若の浦に潮が満ちて来て干潟がなくなったので葦の生えている水のほとりをさして鶴が鳴き渡っていく」といったところでしょうか。

最近は、草木や鳥など、人でない生き物になって書いたうたを後になって自分で気に入ることが多く、特に昨年「夕鶴<ゆふづる>」を書いて以来、冬には鶴のうたを書きたくなります。

古の人々にとって、風景を歌に詠むことは、その地の霊を讃え、そうすることでその地霊の守りを得ることを期する呪的行為であり、また彼らは、自然の生命の盛んな姿を「見る」ことで、その生命力を身の内に取り込む魂振りとしたと、敬愛する白川静さんは仰っています。

潮が満ちて消えた干潟から岸辺へと、鶴が鳴き交わしつつ飛ぶ様を詠ったこの歌も、そのような鶴の姿がめでたいもの、あやかるべきものとして、古代の人たちの目に映っていたからこそ詠まれたものでしょう。

私たち人間は、その様にして昔から、自然の中で無心に生きる命たちに頼り、その力を借りて来ました。 私たちが自然を食い潰してしまう前に立ち止まることができ、無心に生きる命たちの居場所が、この世に残されますように。

あはひうたは、私がある日、体を壊して暇を持て余していたときに、ふと思いついて書きはじめたものですが、歌が祈りそのものだった時代の人たちと(勝手に)共作するこの書き方が、今私の書きたいことにとても合っているかも知れないと、感じるこの頃です。

「葦鶴(あしたづ)」は、よく葦の中にいることから「鶴の別名」、「浪花(らうくわ)」は「波しぶき」、「漁(あさ)る」は「餌を探し求める」、「招(を)く」は「まねく」、「細(ささ)」は「小さな」の意だそうです。

「冬紅葉」の御題「冬紅葉」は、初冬の季語です。

先日、車窓から眺めた町も、すっかり、ややくすんだ赤と黄色で彩られていました。その少し前には、自転車で走る私の顔に雪虫がぶつかってきました。札幌の町に根雪が始まるのももうすぐです。